横浜市立大学病院での患者取り違え医療事故について考える:後編
多くの疑問を置き去りにして起こってしまった横浜私立大学での取り違え医療事故。
一体なぜそんな事が起きてしまったのか、
そしてその後どうなったのか、
またそのことから今後にどのような教訓が残りいかされたのか。
ここからそんなことについて書いていきましょう。
多くの疑問はなぜ見過ごされたのか
まず一番はこれです。
置き去りにされた多くの疑問。
少なくともさまざまな場面において、
多くの疑問が発生していたことは間違いありません。
看護師が感じた違和感、麻酔医が感じた違和感、そして執刀医が感じた違和感と、
さまざまな違和感に対してそれぞれが疑問を抱くは抱いたのです。
しかし、これに対して確認をとったのは、
Aさんは手術室に降りているか、という確認だけでした。
しかもこの確認は取り違えの解消にはつながらず、
結局多くの疑問が置き去りにされたまま手術は行われてしまったのです。
なぜそんなことは起こってしまったのか、その原因は何だったのでしょうか。
エラーを前提としたチェック体制の欠如
人間である以上どこかに失敗は起きます。
これはミスを起こしてはいけないことに関して高度にセンシティブであるべき医療の現場でも同じです。
人間である以上ミスをゼロにすることは不可能です。
しかし、ミスを起こさないことはできなくてもミスを発見することは不可能ではありません。
もし、この医療事故の現場に、ミスを前提とした二重三重のチェック体制があるのです。
それがシステムとして完成していたら、
これほど多くの疑問のうちのどれかはそのチェックに引っかかったはずです。
しかし、それは、残念ながらできていませんでした。
分業による当事者意識の欠如
この場合、一人の患者に一人の担当が随行していなかったことも大きな問題です。
結局この取り違えの核の部分にあるのは、
この手術に関わった人の中で、その本人を見た目で判別できる人間があまりにも少なかったこと。
また、その病状を以前からしっかり把握している人間もまた、いなかったことが問題なのです。
手術する対象のチェックは、この場合申し送りという名の伝言と勘違いの結果混同してしまったカルテでしか行われず、
つまり伝聞と文字情報だけが個人確認の術でした。
もし誰か一人でも、どちらかの患者の情報に近い関係者がいたら。
どこかの段階で疑問は自体の発覚として消化したはずです。
なぜそのようなことが起こってしまったのか
置き去りにされた疑問。
それが生まれたさまざまな原因を考察してきましたが、
ではなぜそれが生まれてしまったのか、それはやはり『人手不足』です。
最初に患者を預けた看護師の落ち度と背景
まず、この事の発端はやはり患者を預けていなくなった看護師の行動。
事件の判決においても、他の関係者が罰金刑なのに対し、
この原因となった患者を預ける行為をした看護師のみが実刑を言い渡され禁固刑となっています。
もちろんそこに原因があり、罪が存在することかは言うまでもありません。
しかし、なぜ命を預かる看護師がそんなことをしてしまったのかという背景には、
やはり医療現場の人手不足というものがあったことは言うまでもないのです。
日本の医療現場の慢性的な人手不足
日本の医療現場は慢性的な人手不足の中にあります。
患者あたりの看護師の数も、米国の3分の1、欧州の半分と圧倒的に少なく、
また医師の数も、一人の医師が一日に何人を矢継ぎ早に手術を行うという現場は少なくありません。
しかも患者はどんどんと入れ替わります。
多くの患者をいっぺんに受け持たなくてはいけない看護師が多忙を極めていることも、
数多く執刀する医師がすべての患者の顔と特徴を覚えることなど事実上不可能に近いことは自明です。
それでもミスは許されませんし、チェック体制があればどうにかなったかもしれません。
しかし、チェック体勢を敷くにも、またチェック体制を敷こうと提案し改善を進めるためにも人手は必要なのです。
横浜市立大学病院の取り組み
この重大な医療事故をきっかけに、横浜市立大学病院はどのような対策をとったのか。
それを見ていきましょう。
よりシステマチックな確認へ
これまで、医療現場では患者を番号で識別することを嫌っていました。
システム的にどうとか、導入に再するコストや技術的な何かではなく、
ただ患者をモノ扱いするようで嫌だった、という本来的な意味で嫌がっていたのです。
しかし、横浜市立大学病院では、この慣例を廃止。
患者は顔で覚えるという理想論ではなく、識別タグを手首につけることによって、
番号でしっかりと識別するというよりシステマチックな転換をしました。
これは今では多くの医療機関で当たり前になっています。
他にも様々な改善が
他にも手術スタッフによる手術前の患者訪問、患者に名前を名乗ってもらう、
麻酔開始時に主治医が立ち会う、異病棟から複数の患者を同時に送らないなどの様々な改善が行われました。
しかし、ある意味、それは当然行わなけわなければならなかったものばかり。
そして、それはきっと医療関係者の中でも、当たり前にそうは思われていたものの、
多忙を極める業務の中で少しづつ忘れ去らえれ置き去りにされていったものであると言えるでしょう。
そいてその結果、当事者意識のない集団による手術が行われ、誰も主体的に関わることなく多くの疑問が放置されたのです。
改善の結果生み出されたのは、そういった当事者意識なのかもしれません。
医療機器にできる可能性。
医療機器は、言うまでもなく機械です。
とても単純なことですが、今回せっかく貼ってあったのに無視されたフランドルテープ。
もし、テープの表面に、
「心臓疾患患者用のテープ」と赤い大文字で表示があったらどうなっていあたでしょう。
「なんだこれ」と剥がして棄てることはなかったと思います。
実は、医療機器にはミス防止の工夫のある製品があまりありません。
医療機器は、医師や看護師という特別な教育訓練を受けた人が使います。
そのせいかどうか、そこは分りませんが、
注意を喚起する表示は少ないのです。
例えば、航空機はあらゆる工夫がされています。
航空機に比べれば医療機器のミス防止への配慮はとても少ないのです。
そして、それが機械である以上、もしくは、もっと根源的に道具である以上、
そこに期待されるのはより高度な技術だけではなく人手不足の解消です。
そして、人間ではなしえない画一的でシステマチックな作業。
患者取り違えにヨテ露呈された日本の医療現場の人手不足と、
当事者意識に欠けるチェックの甘さ。
そんな、2つのどちらにおいても、
医療機器というものは大きな助けとなる要素を持っています。
今後ますます進んでいくであろう人手不足が懸念される医療現場にはより欠かせない要素となっていきます。
正しく道具をつかえば、そこに余裕ができる。
そんな根源的な部分において、医療機器に欠かせない役割が存在するのです。